長野市に古くから伝わる「にとはちさま」って、どんなお話?

にとはちさま

義民助弥の物語ーにとはちさまー

文/ちいこ(児童演劇「にとはちさま」台本参考) 絵/ちいこ

ちいこ
ちいこ

約340年ほど昔の長野市善光寺平で巻き起こった二斗八騒動をご紹介します。

重すぎる年貢に 困り果てていたお百姓さんたち

これは、水内郡下高田村みのちごおり しもたかだむら(現在の長野市南高田)に実在した、「助弥」という若者と、お百姓さんたちのお話です。
その時、助弥は18歳。幼い頃にお父さんをなくした助弥は、毎日毎日田んぼや畑仕事に精を出し、お母さんと肩を寄せ合い暮らしていました。

その頃、ここ善光寺平を治めていたのは、松代藩まつしろはんのお殿様です。
この松代藩の決めた年貢は、一俵につき、籾米もみごめなら5斗3升、玄米なら3斗。他の藩の年貢よりも、はるかに厳しかったのです。

そのため、善光寺平に住むお百姓さんたちは、いくら一生懸命お米を作っても、全て藩に持っていかれてしまい、自分たちが食べる分は残らなかったのでした。

年貢ねんぐとは、今でいう税金のこと。昔は、お金ではなく、お米や農作物で税金を納めていた。
隣の上田藩の年貢は2斗5升。ほかの藩でもせいぜい2斗8升。松代藩は3斗。善光寺平のお百姓さんは、ほかの藩と比べて、厳しい暮らしをしていた。

何度 お願いしても、聞く耳を持たない お殿様

村の人たちは、いつもお腹がすいていました。
このままでは、みんなが飢えてしまうか、この国(善光寺平)を捨てて出て行ってしまうでしょう。
村の名主なぬし(村を仕切る中心人物)たちは、これまで何度も、松代藩のお殿様に3斗の年貢を2斗8升にしてほしいとお願いしてきました。
しかし、松代藩のお殿様はその訴えを、まったく聞き入れてはくれないのでした。

こうなったら、江戸の将軍様に直接、直訴じきそするしかありません。
しかし、この時代はお百姓さんが将軍様と直接会って意見を言うなんて、全くとんでもないことでした。それを実行した者は、その後生きていくことが許されない時代だったのです。それだけではなく、その家族も同じ扱いを受けなければならなかったのです。
自分だけならまだしも、親兄弟、子どもまで巻き添えには出来ないと、誰も直訴に踏み出すことが出来ませんでした。

このままでは、国(善光寺平)がほろんでしまう。立ち上がったのは、当時18歳の青年「助弥」。

この日の夜も 名主たちは、善光寺の裏庭に集まり、「どうしたものか。」「こうしたものか。」と、なんの方策も決まらないまま、時だけが過ぎて行きました。
そこへ、助弥がやってきます。
「今日、名主様たちが全員集まるって聞いて、ここへ来たんだ。いよいよ直訴することに決まったんだろ?伝兵衛でんべえさん、吉兵衛きちべえさん!!」
と、助弥は名主の中で、一番偉い2人に向かって言いました。
はっきりしない伝兵衛と吉兵衛に、助弥は
「名主様たちは、命が惜しくて二の足を踏んでるのか?このままじゃ、みんな飢えてしまうぞ。江戸に行こう。江戸の将軍様にお願いしてみようじゃないか。」

賛同してくれる大人は誰もいない。

36の村の名主たちは、
「若いもんが、口を出すな!」
「直訴なんてしたら、家族まで犠牲になるんだぞ!」
「そんなに、簡単に決められることじゃないんだ!」
と、助弥に冷たく言い放ち、誰も相手にしてくれません。

助弥の 強い決心に、心動かされる名主たち

助弥は、「俺は、名主でも組頭くみがしらでもない、ただの百姓だが、名主様たちが許してくれるなら、俺が直訴の先立さきだちになりたい。」と申し出ます。
名主たちは、驚きました。
そして、助弥は、用意してきた訴願状そがんじょう(江戸の将軍様に渡すための手紙)に、目を通してほしいと名主たちに見せました。
その訴願状は、玄米3斗の年貢がいかに無理な定めかが、一目でわかる見事なものでした。

助弥が考え出した、直訴に向けての作戦

さらに、助弥はある考えがあると言います。
訴願状にはどうしても、記名がなくてはなりません。当然、普通に名前を書いてしまえば、助弥が直訴の先立ち(責任者)であることが、すぐにわかってしまいます。
そこで、全員の名前を丸い輪の形になるように、芯に向かって書いていけば、誰が先立ちかわからない。というのでした。

善光寺平の お百姓さんたちの 心が ひとつに!

伝兵衛も吉兵衛も、
「わしの腹は決まった!助弥の心に命をかけてみる。」
「助弥、わしも行くぞ!にとはちが、わしらの命だ。」
と、助弥の書いた訴願状と、その作戦にたいそう感心し、江戸へ向かう決心をするのでした。
そして、他の名主たちも次々と、「俺もお前に命を預けるぞ」「にとはちだ!」「おう!にとはちだ!!」と助弥が説明したとおり、丸い輪の署名を書き始めたのです。
「善光寺平の土に生きてきた百姓であるからには、俺たち百姓の手でこの善光寺平を守らなくちゃ!」という助弥の強い思いが、名主たちの心を動かしました。

助弥の心に引っかかる たった一つのことと 母の想い

名主だったお父さんは、助弥が9歳の頃、病気でなくなっています。それ以後はお母さんが一人で助弥を育ててくれました。
助弥が先立ちとなり、江戸の将軍様に直訴をするということは、家族であるお母さんの命も道連れ、、、ということになります。
助弥はそれを、泣きながらお母さんに告げるのでした。

しかし、お母さんは「おう、そうかい。お前はやっぱりお父さんの子なんだね。」と、そうなることがわかってたかのように笑顔で言うのでした。
「お父さんは、の心を持っていた。お前にもお父さんと同じ義の心があるから、この国の有様を黙って見てはいられなかったんだろうよ。私は嬉しいよ。よくぞ、みんなの為に立ち上がる決心をしてくれた。ありがとう。」
そう言って、助弥が立派に育ったこと喜んでいました。
その母は、自分の存在が助弥の決心をさまたげることにならないようにと、助弥が江戸に出発する前に、自ら助弥の父親のもとへ旅立ったと言われています。

義の心・・・人として正しいと思う道を選ぶ心。誰かのために自分の力を使うことを喜びと感じる心。

江戸へ。 直訴は、、、成功!

江戸の将軍様に直訴をするため、36の村のうち6名の名主と助弥の7名が江戸へ旅出ちました。寒い冬の頃です。助弥が先頭に立ち、信濃の国から、野を越え山を越え、ひたすら江戸に向かいました。
助弥たちの立派な態度と、助弥の書いた訴願状が、江戸の将軍様の胸を打ち、その後すぐに、江戸幕府は松代藩に「年貢を玄米3斗から2斗8升とするように!」と命令を下したのでした。
直訴は成功したのです。

面目まるつぶれ。 松代藩のお殿様の怒り爆発!!!

改革の厳命を受けた松代藩のお殿様の怒りは、大変なものでした。
すぐに、城を上げての大捜査が始まりました。
そんな中、
「江戸幕府が、にとはちの訴えをお取り上げになった!」
と、村の人たちは、大喜びです。
しかし中には、
「お役人たちは、血眼ちまなこになって、直訴した者を探している。見つかったら、、、」
「恐ろしいなぁ。」
と、心配を口にする者もいます。

隠し通す村人たち。 手こずる役人たち。

各村の主だった者たちは、次々ととらえられ、厳しく調べられました。しかし、誰一人として、先立ちが助弥であることを口にする者はいませんでした。
役人たちは頭を抱えます。どうしても、直訴の先導者がわからないのです。
しかし、、、

助弥 捕らえられる

とうとう、訴願状の文字が助弥のものであることが分かってしまうのでした。
縄をかけられ、助弥は代官所へ連れてこられました。
役人がずらりと並ぶ前に、助弥は座らされます。
代官に「お前は命が惜しくないのか?なぜ、法を恐れず直訴などしたのだ?」と問われると、
「俺は法など恐れはしない。俺が恐れるのは、この国の行く末だ!!!」
と叫ぶように言いました。助弥の迫力に代官はタジタジです。

助弥は代官に、うす籾米もみごめを持ってくるようにお願いします。実際に1俵の米俵から、玄米が3斗とれるのかどうか、目の前でって見せたのです。

結果は、やはり2斗8升しかとれません。
「これで、百姓が生きていけると思うのか!!俺たちは、楽な暮らしをするために直訴したんじゃない。このままでは、この国の未来がなくなってしまうんだ!!」
助弥は代官に向かって、思いをぶつけます。

願いは、届いた! 助弥は、、、

すると、代官は
「お前の命を懸けた訴え、わしの胸には十分届いたぞ!必ず、殿に伝えよう。」
と言ってくれたのでした。
これまで、百姓たちがどんなに辛い思いをしてきたのかが、やっと松代藩の役人たちに届いたのです。

しかし、やはり直訴をするということは、この時代では重大な罪です。
助弥は、越訴おっその罪を申し渡されるのでした。

その後、鳥打峠の刑場で村の人々に見守られながら、助弥はいさぎよく、はかな散って行ったのでした。
その際、助弥は最期に役人をにらみつけながら、
「いいか!にとはちだぞ!!」
と、叫んだと言われています。

苦しみから解放された善光寺平の人たち。感謝の気持ちでいっぱいなのに、、、

その後、間もなくして「年貢を二斗八升とする」というおふれが出され、善光寺平に平和な暮らしがやってきました。村人たちは大変喜び、助弥さんの功績をたたえ、村の伊勢社の境内にほこらを建てる計画が持ち上がりました。
しかし、お役人たちは「助弥は罪人である。罪人を褒めたたえてはいけない。」と、助弥さんを公に供養することを禁じたのでした。

そこで、村人たちは、計画通り村の伊勢社の境内に祠を建てました。わかる者にしかわからないように、名前は「天神社」になっています。

その祠は、今でも地元の人々に大切にされています。
そして、人々は助弥さんのことを、「にとはちさま」と呼んで、いまでもこうして語り継がれているのです。

おしまい

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