長野市に古くから伝わる「にとはちさま」って、どんなお話?

にとはちさま

義民助弥の物語ーにとはちさまー

ちいこ
ちいこ

これは、水内郡下高田村みのちごおり しもたかだむら(現在の長野市南高田)に実在した、「助弥」という若者と、お百姓さんたちのお話です。

江戸時代のことです。
当時、善光寺平を治めていた松代藩は赤字財政を立て直すために、藩主真田幸道さなだゆきみちもみ一俵(五斗三升)は定米さだめまい玄米げんまい)三斗であると年貢を決めます。隣の上田藩では二斗五升でしたので、かなり重い年貢です。

善光寺平の農民は、松代藩に幾度となく減免を訴えますが許されません。
そこで江戸幕府に直接訴え出る以外にないと決心しますが、直訴をした人の家族は全員処刑されるという厳罰を恐れ、先頭に立つ者がいません。
このとき、下高田村(現南高田)に住む助弥という18歳の青年が、農民らの苦しみを救うために立ち上がり、年貢米二斗八升を実現します。
しかし、村人たちが恐れていた通り、助弥は越訴の罪で打ち首になってしまいました。

罪を許されて生き残った名主たちは、処刑された助弥や他の名主たちの冥福を祈って、善光寺平の境内に石塔(千人塚)を建てました。
また村人たちは天神社(菅原道真すがわらみちざねを祀る)と偽って小さなほこらを建て、助弥の偉業を忘れないように、「にとはちさま」と親しく呼んでいました。これは、今も伊勢社の境内に祀られています。また、当時助弥が住んでいた場所や、旧南高田公会堂跡地にも、石碑、石塔が祀られています。

こうして、人々は助弥さんのことを「にとはちさま」と呼び、350年経った今でも語り継がれているのです。

年貢ねんぐ・・・今でいう税金のこと。昔は、お金ではなく、お米や農作物で税金を納めていた。

籾米もみごめ玄米げんまい・・・田んぼで採れた稲をこいだものが籾米、それには米粒を守るための籾殻(硬い外皮)がついていて、その籾殻を除いたものが「玄米」で、長い期間の保存に適している。

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