松代藩の「二斗八騒動」
江戸時代の前半の頃、松代藩は赤字財政を立て直すために、藩主真田幸道が籾一俵(五斗三升)は定米(玄米)三斗であると、かなり重い年貢に決めます。善光寺平の農民は、松代藩に幾度となく減免を訴えますが、許されません。そこで、江戸幕府に直接訴え出る以外にないと決心しますが、厳罰を恐れ、誰も名乗りをあげるものはいません。
この時、下高田村(現南高田)に住む助弥という18歳の青年が立ち上がり、年貢米二斗八升を実現します。その後、助弥の偉業をわすれないようにと、人々は「にとはちさま」と親しく呼ぶようになりました。
松本藩の「加助騒動」
1686年(貞享3年)、「加助騒動」と呼ばれる百姓一揆が起きました。年貢が引き上げられ、安曇郡中萱村の前庄屋 多田加助(48歳)他13名の庄屋を中心とした村長が決起。郡内224ヶ村、約10,000人の大騒動となりました。
越訴、強訴、騒乱の罪で加助他8名は はりつけ、20名が ごくもん、追放7名がこの騒動の犠牲となったそうです。
青木義民伝
古くから、「夕立と騒動は青木から」という言葉があるらしい。長野県のほぼ中央に位置する青木村では江戸時代から明治にかけて5回もの農民一揆が起こっており、一地域としては日本で最も一揆が多発した村なのだそうです。自らの命を顧みず庶民の為に立ち上がり、正義を貫いた先陣を誇りとし義民太鼓を創設、村をあげて義民の精神を顕彰しています。
ちいこ
日本各地でこうした一揆が繰り返され、時代がよりよく変わっていったんだね。本当に本当にすごい人たちだなぁ。私たちは、こういった先人たちが作ってくれた時代を生きている。だから、私たちも未来の人たちのために、よりよい時代を作って行かなきゃ!
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