まいど、ブログの更新が遅いうっちゃんです。
「すまん、ブログの更新が遅いのは生まれつきだ、許してくれ!!
しかし、これだけは聞いてくれ!」
↑ ↑ ↑
(台本配られたんでね、ちょいちょい出していきますよ~)
史跡巡りの後、家族旅行で横浜に行って来ましたんです。
そんなわけで、遅くなった次第でございますm(__)m
ただいま♡
あ、
ちゃんと、みんなにお土産買ってきたからねー(^O^)/
その旅先でね、びっくりハプニングがありましたの(´艸`*)
宿にチェックインした後、みんなで近くのコンビニに行ったわけですよ。
すると、中二の娘が、、、
「同級生にそっくりな人いる!!お姉ちゃんもそっくり!」
って言うんです。
クラスは違うけど、同じ学校の同級生の男の子。
お!イケメン!!
こんな250㎞も離れた地で、同じコンビニで、同じ時間に会うなんて、ミラクルすぎ!!
思わず、声をかけましたさ。私が。
だって、、、、
だまって見てはいられなかったんだ。
何もせずにはいられなかったんだ。
すると、やっぱりビンゴで。
その同級生のお父さんもお母さんもお姉ちゃんも、私ら家族も大興奮で!!
当の同級生同士の二人は、チーン( 一一)・・・という顏をしておりましたがね。
こんなことがあるんですね。
運命ですね。
はい、お待たせしました。
では、8月9日の史跡巡りの模様をお送りいたします。
今日は、13人中5名欠席。
そして、長年にとはちやってて初めてだと思うんですけど、、、OBOGが一人も参加しませんでした。
心細いなぁ。。。


まず、古牧小学校から、南高田の金毘羅堂(旧南高田公会堂)を目指して出発です。
3年前は3年生がいっぱいいたので、マジで大変だったけども、、、
今回はお利口メンバーなので、助かるぅ~♪



途中、歩行者用信号機のボタン押しジャンケンなどをし、
みーHなの靴ひもが何度もほどけながら、ようやく第一目的地に到着!!
毘沙門堂
そこで待っていてくださっていたのは、
郷土史研究会 南高田支部の 長田さん。
今日の、史跡巡りの案内役として、快く引き受けてくださいました。
やさしい語り口で南高田の歴史をわかりやすく教えてくださる長田さんです。

ここに設置されている「義民助弥の碑」は、にとはち騒動から200年も経ってから、建てられたものらしいのです。
長田さんのお話では、「当時の古牧小学校の校長先生が助弥さんのことを調べるように要請をして、ここに義民助弥の碑が建った。」とのことでしたね。
うっちゃん調べによると、大正14年ころ、村をあげて「助弥後援会」という組織が出来たそうで。
この後援会の発起人がその校長先生だったということかな。
それまでは、ずーっと「助弥」という名前は伏せられていたのを、「助弥後援会」のおかげで公に供養することが出来るようになったそうです。
350年前の人物への思いを当時の村人たちが役人の目に触れないように残してくれて、それを200年後の「助弥後援会」の人々が受け取り、次の時代へと残してくれたんですよ。
その思いを私たちが受け取っているわけです。
「助弥後援会」と「にとはちさま保存会」。
志は一緒な気がします。


ん???
今まで、一度も疑問に思ったことはなかったんだけど、、、真ん中の大きな石は何だろう。。。と思って、ネット情報ですが、調べてみました。
参考文献:『義民助弥』(堀江構想 著 / 1925年)
この中で、助弥の功績とともに「これまで村の片隅で密かに守られてきた自然石の墓標」についての存在や、村人たちが藩の目を恐れてどのように供養してきたかという口伝・伝承が整理されている。
参考文献:「助弥後援会」の移設記録(大正14年)
「大正14年11月に現在の「義民助弥之祠」が建立された際、南高田(旧高田村)の有志によって組織された後援会が、「村内で密かに代々守り継がれてきた、本来の墓標である自然石」を祠の横に一緒に移設したという経緯が、地区の記録や郷土史(『長野市誌』の民俗・地域編など)に記されている。」と記載されている。
以上のことから、真ん中の大きな石は、当時の村人たちが助弥の墓石として残してくれたものなんじゃないかと思われる。罪人だった助弥のお墓を作ることは許されなかったため、文字は何も掘られていない。なのに、村の人々は大事に守ってきたんだね(#^^#)
人々の思いがありがたすぎて、、、もう一回史跡巡りしたくなっちゃった。。。

助弥生誕の地
はい。
続いて向かったのは、助弥生誕の地。
ここは現在、原さんという方のお宅になっていますが、350年前に助弥さんが住んでいた場所です。

「助弥生誕地記念碑」をこのようにご自宅の一角に設置して、誰もが手を合わせることが出来るようになっています。


助弥さんの家の前には用水路が流れていたとのことで、今もそれは、道路の下に流れています。
当時ここは、大雨の度に川が氾濫してしまい、ここ一体の田んぼが浸水してしまうという被害が多発していたそうで。
そのために、裾花川の流れを変えるための大工事をしたんだと。
へー。
初めて知った( ゚Д゚)
長田さんの説明する内容も、年々バージョンアップしてる!!
そのために松代藩は多額のお金が必要で、農民から重い年貢を納めるよう命じていたということなんですな。
上田藩の年貢は二斗五升だったらしいが、松代藩は三斗。
なんでこんなに理不尽なのかと思っていたけど、理由があったんだね。

伊勢社・天神社(二斗八升神社)


続いて、一行がたどり着いたのは、、、
台本にも出てくる「伊勢社」。



この伊勢社の境内に「天神社」があります。
「二斗八升神社」とも言います。
350年前の村人たちが、助弥さんを祀るために建てた祠です。
菅原道真を祀るフリをして、助弥さんを供養するために建てたものです。



みんなで公演の成功をお願いしてきました。




ここで、ひとまず休憩をして、




今度は、車で移動します。
目指すは、善光寺の裏庭!!


千人塚(二斗八塚)



「にとはちさま」の演劇は、善光寺の裏庭のシーンから始まります。
名主たちが
「このままでは村が滅んでしまう。」
と頭を悩ませているところに、助弥が登場するシーンは、ここです。
この善光寺の裏庭に千人塚(にとはち塚)があります。
当時は、助弥さんだけじゃなく、他にも助弥さんと同じように犠牲となった人がたくさんいました。
(一度に600人が処刑されたというお話もあります。)
その方たちを供養するための石塔です。


さ、時間が残り少ないので、遊ぶ時間があまりありませんが、城山公園で思う存分遊びたまえ。
わー!!!
城山公園





みなさん、お疲れさまでした。
たぶん、史跡よりも、遊具の方が楽しかったんであろう。。。
でも、何かしら受け取ったものがあればいいなぁ。。。と思う うっちゃんでした♪
みんな、ポスターの絵、がんばって書いてきてねー♡
では、次回8月23日の練習で、元気な顔見せてください\(^o^)/




コメント